北条時宗公は1251(建長3)年に生まれました。
父・北条時頼の影響もあって、中国から招いた無学祖元禅師を師として参禅に励んでいました。
1268(文永5)年、18歳の時に執権に就任します。
1274(文永11)年、文永の役がおこりました。
文永・弘安の蒙古襲来(元寇)という国難に立ち向かった執権時宗公は、金剛経・円覚経を血書し、国師(高僧)に奉納しました。
国師は時宗公の熱意に打たれ「この般若の力を念ずれば、必ず勝利を得ることが出来る」と励まし、「莫煩悩」の3字を書き与え、勇敢心を奮起させました。この国師の激励があってこそ時宗公が奮起し、日本軍を振るい立たせ蒙古軍を撃退させたのです。
蒙古軍を撃退した時宗公は戦死者を敵味方区別なく(冤親平等)弔うため、また国師に鎌倉にとどまって禅をひろめて欲しいという願いもあって、1282(弘安5)年12月8日、円覚寺を開創し、落慶開堂を行いました。
時宗公は円覚寺が建立されてから2年後の1284(弘安7)年、4月4日に34歳の若さで亡くなられました。(法名・法光寺殿杲公大禅定門)
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北条貞時公は時宗公の子で、父の死によって弘安7(1284)年14歳の時執権職につきました。
北条一門の権力を強め、幕府の政治を掌握しました。時頼・時宗公と同じように深く禅宗に帰依し、特に来朝僧一山一寧に参禅し、円覚寺の第7世住持にむかえました。
貞時は父時宗の志をついで大檀那となり、円覚寺に洪鐘を造って国家の安泰を願いました。これが佛殿横高台にあります国宝の洪鐘です。
また「禅院政府」というものを定め、禅僧(修行僧)たちの規律をつくりました。これは円覚寺古文書のなかにあり重要文化財に指定されています。この規則には大変興味深いものもあります。例えば女性が寺に入ってよい日はいつとか、僧侶の外出の規則とか、かなり厳しい束縛があったようです。
貞時の時代には円覚寺僧侶の人数が二百人にのぼり、寺が栄えた事がうかがわれます。
1311(応長元)年、40歳の生涯を閉じられました。(法名・最勝園寺殿演公大禅定門)
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北条高時公は貞時公の子で禅宗に深く帰依し、この佛日庵で貞時13回忌を盛大に執り行った記録が古文書に記されています。
現在は残っていませんが、このころに法堂が建立されています。
高時公は南山士雲禅師や夢窓国師(夢窓疎石)に参禅されました。そして高時公は夢窓国師を鎌倉幕府滅亡の時代に住持としてむかえました。国師は後醍醐天皇や足利氏の信任が篤く、国師のご人徳と尽力によって円覚寺は戦乱から逃れ、寺を護持することができました。(法名・日輪寺殿鑑公大禅定紋) |
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